世界遺産候補の教会見学は
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※大浦天主堂の見学には、事前連絡は必要ありません。

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教会堂は「祈りの場」ですので、見学マナーを守り、厳粛な雰囲気の中で心静かにお過ごしください。
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大浦天主堂と関連施設

1570年、大村純忠はイエズス会と長崎港の開港協定を結び、長崎は国際貿易港として発展した。同時に、長崎は日本におけるキリスト教の拠点となり、10を超える教会が建ち並んだ。禁教の時代を迎えると、教会は取り壊されて信者の多くは棄教したが、浦上などには密かに信仰を守る潜伏キリシタンが息づいていた。


幕末、諸外国からの開国圧力で幕府は、1858年に英米仏露蘭と通商条約を結んだ。長崎では大浦・山手地区を外国人居留地とし、外国人のために大浦天主堂が1865年2月に創設された。その約1ヵ月後、浦上の潜伏キリシタンがプティジャン神父に信仰を告白、世界宗教史上の奇跡である「信徒発見」が起った。


創建時の天主堂は正面に3つの鐘塔があったが、明治初期の改築で現在の姿になった。内部は本格的なリブ・ヴォールト天井で、わが国最初期の洋風建築として、1933年に国宝に指定される(※)。天主堂と、その境内にある旧羅典(らてん)神学校、旧長崎大司教館等が世界遺産候補「大浦天主堂と関連施設」で、2012年に「大浦天主堂境内」として国の史跡に指定されている。


(※)1953年に再指定

平戸にあった南蛮貿易港は、領主・松浦氏が次第にキリスト教を嫌うようになったことから、大村領の横瀬浦、さらに福田へと移っていった。しかし、福田港は波が荒く、松浦氏の襲撃を受けたことから、1570年、イエズス会と大村純忠はすぐ近くの長崎を開港する協定を結び、翌年にはポルトガル船が入港する。


長崎は、南北朝頃から長崎氏が支配していたが、当時の長崎甚左衛門純景(じんざえもんすみかげ)は大村純忠の家臣となり、1563年には純忠とともに洗礼を受けている(※1)。開港前の1567年には、修道士アルメイダが長崎で布教を始め、1569年には純景が寄進した土地に最初の教会「トードス・オス・サントス(諸聖人の教会)」が建てられた。長崎開港と同時に湾に突き出した岬の突端に「岬の教会」が建てられ、イエズス会の拠点となり、各地からキリシタンや貿易品を求める商人らが集まって長崎は発展する。この頃、長崎半島(※2)を支配する深掘氏は、たびたび長崎を襲撃し、トードス・オス・サントスも焼き払われた。深掘氏や佐賀の龍造寺氏の攻撃が強まる中、これをかわす狙いもあって、純忠は長崎と茂木を1580年にイエズス会に寄進する(※3)。


1587年、キリシタンの増加に危惧を抱いた豊臣秀吉は伴天連(ばてれん)追放令を出し、長崎等を自身の直轄地とした。しかし、南蛮貿易に配慮したため強く取り締まらず、いったん破壊された岬の教会の跡地には日本最大の「被昇天のマリア教会」が建てられた。徳川幕府も当初は寛容であったため、10を超える教会が立ち並び、長崎は「日本の小ローマ」とも呼ばれた。その後、幕府は1614年に全国に禁教令を出し、キリシタンの取締りを強化したため、多くは棄教するが、浦上地区など一部では潜伏キリシタンとなって信仰を守った。


幕末に諸外国からの開港圧力が強まり、幕府は1858年に英米仏露蘭と「安政の五ケ国通商条約」を結び、長崎では大浦・山手地区を外国人居留地とする。この少し前、ローマ教皇は日本の開国が近いとみて、日本での再布教をパリ外国宣教会にゆだねていた。1844年、宣教師はフランス軍艦で琉球に上陸して日本語を習得し、修好通商条約が結ばれるとジラール神父が仏領事館付きの通訳兼司祭として江戸に入り、横浜に教会を建てる。長崎では、その翌年、ヒューレ神父が教会建築に着手し、続いてプティジャン神父も長崎に入った。工事は天草の小山秀之進が中心となって進められ、鋭い尖塔を持つ異国風建物は、「ふらんす寺」と呼ばれて大勢が見物に押しかけた。1865年2月19日の献堂式には、横浜のジラール神父(※4)のほか、長崎駐在のデューリー・フランス領事、長崎居留地の外国人、長崎港に停泊中の仏英露等の軍艦船長も参列、フランス軍艦から引いてきた軽砲が21発の祝砲を放った。


この時点では禁教政策は続いており、この教会は外国人のためのものである。しかし、キリシタンの末裔にも分るよう、正面に「天主堂」の文字と十字架を掲げた。その期待は実り、献堂式から1ヵ月後の3月17日、天主堂の門の前にやってきた15人程度の人々の中から一人の婦人が「ここにおります私どもは、皆あなた様と同じ心でございます」とプティジャン神父に告白し、聖母子像の前に案内すると「サンタ・マリアさまだ」と口々にささやいた。これが世界宗教史における奇跡「信徒発見」であり、禁教令から約250年後、浦上の潜伏キリシタンは神父と出会った。


信徒発見の舞台になった大浦天主堂は、創建時は正面に3つの鐘塔があるデザインだったが、明治初期の改築で現在の姿になった。内部はリブ・ヴォールト天井、尖頭式アーチ形の窓をもつ本格的な洋風建築で、わが国最初期の洋風建築として、1933年に国宝に指定され、戦後の新法下で1953年に再指定された。


天主堂建設後、境内には外国人宣教師らによって、旧羅典(らてん)神学校、旧伝道師学校、旧長崎大司教館(※5)が建設された。これらはいずれも建築学上の観点から国や長崎県の文化財に指定されている。また、大浦天主堂と関連施設が立地する境内は、信徒発見の舞台かつその後の宣教拠点としての歴史性を評価され、2012年に国の史跡に指定された。これら、大浦天主堂とその境内にある歴史的な建造物群は「大浦天主堂と関連施設」として世界遺産候補になっている。


(※1)洗礼名ベルナルド
(※2)長崎港の入口
(※3)統治権とポルトガル船の停泊料がイエズス会に帰属し、長崎港の関税と入港税は純忠が保有
(※4)日本教区長
(※5)旧羅典神学校/1875年、旧伝道師学校/1883年、旧長崎大司教館/1915年

住所 長崎県長崎市南山手町5-3
ミサの時間 特別に実施する場合あり
見学受付時間

 

【大浦天主堂】 8:00~18:00(受付は17:45まで)

 

  • 拝観料 大人600円、中高生400円、小学生300円(団体料金あり)
  • 旧羅典神学校も同時にご覧いただけます。
  • 詳細は、大浦天主堂まで TEL 095-823-2628
    http://www1.bbiq.jp/oourahp

※旧長崎大司教館と旧伝道師学校は、非公開です。

交通アクセス

【アクセス参考図】

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周辺散策マップ

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この資産へのアクセス、周辺散策の参考としてご利用ください。

大浦天主堂の正面
大浦天主堂の正面
大浦天主堂と関連施設の近景
大浦天主堂と関連施設の近景
大浦天主堂の背後
大浦天主堂の背後

教会を訪れる。構成資産候補紹介

大浦天主堂大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)関連施設(かんれんしせつ)
大浦(おおうら)地区(長崎市)
出津教会堂と関連施設出津教会堂(しつきょうかいどう)関連施設(かんれんしせつ)
外海(そとめ)地区(長崎市)
大野教会堂大野教会堂(おおのきょうかいどう)
外海(そとめ)地区(長崎市)
黒島天主堂黒島天主堂(くろしまてんしゅどう)
黒島(くろしま)地区(佐世保市)
田平天主堂田平天主堂(たびらてんしゅどう)
平戸(ひらど)生月(いきつき)地区(平戸市)
平戸の聖地と集落平戸(ひらど)聖地(せいち)集落(しゅうらく)
春日集落(かすがしゅうらく)安満岳(やすまんだけ)
中江ノ島(なかえのしま)
平戸(ひらど)生月(いきつき)地区(平戸市)
野崎島の野首・舟森集落跡野崎島(のざきじま)野首・舟森集落跡(のくび・ふなもりしゅうらくあと)
小値賀(おぢか)地区(小値賀町)
頭ヶ島天主堂頭ヶ島天主堂(かしらがしまてんしゅどう)
上五島(かみごとう)地区(新上五島町)
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江上天主堂江上天主堂(えがみてんしゅどう)
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日野江城跡日野江城跡(ひのえじょうあと)
南島原(みなみしまばら)地区(南島原市)
原城跡原城跡(はらじょうあと)
南島原(みなみしまばら)地区(南島原市)
天草の﨑津集落天草(あまくさ)﨑津集落(さきつしゅうらく)
天草(あまくさ)地区(熊本県天草市)

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