概要
天文17年(1549)、宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、翌年に平戸で布教、キリスト教は戦国大名らにも広がりました。初のキリシタン大名・大村純忠が、南蛮貿易港として開港した長崎は教会が立ち並び「小ローマ」とも呼ばれました。島原半島や天草でもキリスト教文化が花開き、4少年を天正遣欧使節としてローマに送り出します。
しかし、豊臣秀吉による伴天連追放令や日本二十六聖人の殉教など流れは変わりました。徳川幕府も鎖国と禁教の姿勢を強め、島原の乱を機に徹底的な弾圧を加えます。仏教に改宗しない信者たちは、神父が不在の中、自分たちで洗礼を行うなど潜伏信仰を続けました。
日本の開国とともに、長崎に外国人のための大浦天主堂が建てられると、浦上村の潜伏キリシタンが訪れて信仰を告白(元治2年(1865)3月17日)。これが世界宗教史上の奇跡と呼ばれる「信徒発見」です。明治政府になってからも禁教は解けず、「浦上四番崩れ」で信者3千人以上が迫害を受けました。
諸外国の批判の高まりで、明治6年(1873)にキリシタン禁制の高札が撤廃されます。潜伏キリシタンの多くはカトリックに復帰し、信仰の証として競って教会を建築しました。潜伏していた山中や浦々に建てられた教会は、自らの労働奉仕で造られ、信者の思いの強さがしのばれます。