世界文化遺産エリア内の教会見学は
【事前連絡】をお願いします。
※大浦天主堂の見学には、事前連絡は必要ありません。
※対象となる教会は、一覧表示に掲載の9つの教会です。

■事前連絡確認

教会見学に当たってのお願い

教会堂は「祈りの場」ですので、見学マナーを守り、厳粛な雰囲気の中で心静かにお過ごしください。教会行事(ミサ、葬儀等)により見学できない場合や、一度に多くの見学者を受け入れられない場合もあるため、見学を希望される際には【事前連絡】をお願いしています。
なお、大野教会堂については、外観のみの見学になります。
田平天主堂は、世界文化遺産に関連する重要な文化財として多くの皆様にご訪問いただいている現状を踏まえ、同様に事前連絡をお願いしています。

教会を訪れる

原城跡

原城は、日野江城の支城で、約3km離れた海岸の小高い丘に位置する。居城である日野江城を上回る規模で、海を背にした堅固な造りであった。しかし、徳川幕府が禁教を強める中、有力なキリシタン大名であった有馬晴信は、岡本大八事件をきっかけに1612年に斬首される。その後、原城は廃城となった。


再び脚光を浴びるのは、島原天草の乱である。島原・天草両地区で圧政が続く中、台風や日照りで餓死者が続出、農民やキリシタンらの怒りが頂点に達する。1637年、16歳の天草四郎(※)を総大将として蜂起した。当初は一揆勢が優勢であったが、やがて守勢に転じ、天草勢も加わり3万人余が原城に籠城する。幕府軍は12万人で取り囲んだが、守りが堅固で何度も攻撃に失敗し、鎮圧に成功したのは4ヵ月後であった。


その後、城は破壊され、一揆勢の無数の遺体が埋められた。1938年、原城跡は島原天草の乱の舞台として、国の史跡に指定された。最近の発掘調査で無数の人骨とともに、鉄砲玉を鋳つぶして作った十字架などが大量に出土している。


(※)関ヶ原の戦いで処刑されたキリシタン大名・小西行長の家来の子

原城は、日野江城の支城で、約3km離れた海岸の小高い丘に築かれた。古くから小規模な施設はあったが、1496年に有馬貴純(たかずみ)が本格的な城を建てたとの説がある。晴信(はるのぶ)の時代には、この城を居城にするための工事を行い、家臣や教会の建設も進めていたようで、宣教師の1604年の記録では「教会の移転を援助するというので、殿が新しい城に移るときには私たちも従う」(要約)旨の記述がある。しかし、実際に移転した記録はなく、2度にわたる大型台風で大きな被害を受け、移転できなかったとの見方がある。


原城は、本丸が有明海に面した標高31mの崖の上にあり、二ノ丸、三の丸、天草丸、出丸などが築かれている。周囲は4㎞に及び、居城である日野江城を凌ぐ規模を誇った。海を背にした天然の要害で、国内最大級の虎口(正面玄関)をくぐると城道が最大10回も曲がるなど、複雑で堅固な造りであった。しかし、有馬氏失脚後、領主となった松倉氏は新たに島原城を築城し、一国一城令で原城は廃城となった。城の石垣の一部は、島原城用に運んだとされるが、城の大枠は残された。


再び脚光を浴びるのは、島原天草の乱である。島原・天草両地区で圧政が続く中、台風や日照りで餓死者が続出、農民やキリシタンらの怒りが頂点に達し、1637年、16歳の天草四郎(益田四郎時貞)を総大将として蜂起することとなった。四郎は、小西行長の家来であった浪人の息子で、幼いころから才知に優れ、長崎で学んだ際に洗礼を受けてジェロニモを名乗ったとみられる(※1)。


島原一揆勢は代官を殺害し、島原城を包囲した。天草一揆勢は、富岡城を落城寸前に追い込んだが攻めきれず、やむなく海を渡って島原の原城に転進。島原勢と合加わり、最終的には37,000人が籠城する。幕府もこの乱を重視し、上使として板倉重昌を派遣するが、不十分な体制で攻撃を仕掛け、自身が討ち死にする。後任の松平信綱は、兵糧攻めに加え、平戸のオランダ商館長に依頼してオランダ船から砲撃するなど、一揆勢を追い詰めたうえで総攻撃を行い、4ヵ月以上に及ぶ島原の乱を鎮圧する。一揆勢は、寝返った山田右衛門作(えもさく)を除いて殺され、数千人の首が現地でさらされ、天草四郎ら指導者4人は長崎の出島でさらし首になったとされる。城は徹底的に破壊され、一揆勢の無数の遺体が埋められた。


幕府は、この乱を機に禁教を徹底する一方、民心の安定にも配慮するようになる。島原では、年貢の過酷な取り立てを行った松倉氏は斬首され、その後を治めた高力(こうりき)氏は、1年間の年貢免除や瀬戸内地方からの移民受入れなどで、島原の復興を担った。現在盛んなそうめんの製造は、この時に小豆島などからの移住者が持ち込んだとされる。天草でも、藩主の寺沢堅高(かたたか)は天草の地を没収され(※2)、原城攻めに参加した鈴木重成が善政を行うとともに、幕府に年貢米の減免を要請し、聞き入れられなかったことから自刃(※3)、その養子の鈴木重辰の時に年貢半減が実現した。天草には重成らを祀った鈴木神社が建立されている。


時代は下り、1766年に有馬村願心寺の注誉住職と各村の庄屋らが、散乱する骨を集めて供養する「ほねかみ地蔵(※4)」を建てた。最近の発掘調査で無数の人骨とともに、鉄砲玉を鋳つぶして作った十字架などが大量に出土している。原城跡は島原天草の乱の舞台として、1938年に国の史跡に指定された。


(※1)長崎生まれ説もある
(※2)後に自殺
(※3)病死説もある
(※4)骨を噛み締めるとの意味

住所 長崎県南島原市南有馬町乙
交通アクセス

【アクセス参考図】

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周辺散策マップ

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この資産へのアクセス、周辺散策の参考としてご利用ください。

※トイレは櫓台跡に設置されていますが、他の設置場所及び近隣駐車場等については、周辺散策マップにてご確認をお願いいたします。 

<駐車場>
原城跡は、史跡の保存・管理上史跡の範囲内には駐車できないことになっておりますので、史跡範囲外の駐車場をご利用くださいますようお願いいたします。
・普通乗用車(自動二輪含む):原城温泉真砂建物奥「大手口駐車場」
・中型・大型バス:原城跡駐車場(原城跡入口付近)/浦田漁港大型車両臨時待機所


【お問合せ先】
南島原市役所企画振興部 世界遺産推進室
〒859-2211 長崎県南島原市西有家町里坊96-2
TEL 0957-73-6706

原城跡の石垣
原城跡の石垣
原城跡から海側を望む
原城跡から海側を望む
原城跡の遠景
原城跡の遠景

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