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旧五輪教会堂(久賀島の集落)
旧五輪教会堂(久賀島の集落)
Former Gorin Church(Villages on Hisaka Island)
旧五輪教会への訪問にあたって
構成資産「久賀島の集落」にある旧五輪教会堂が建つ地区は、浜脇小教区の巡回地区です。カトリック五輪教会が民家を隔てて建てられており、宗教行事等は五輪教会でおこなわれています。
1931年、旧浜脇教会を移築して五輪教会となり、1985年の五輪教会建替えに伴って解体される予定でした。
保存運動により解体を免れ、五島市所有の文化財として修復工事がおこなわれました。。
自治体と地元住民の協力体制のもと、見学受入体制がとられています。
構成資産に含まれる文化財等
名称 | 区分 | 指定年 |
五島列島における瀬戸を介した久賀島及び奈留島の集落景観 | 国選定重要文化的景観 | 2011年,2022年(追加選定) |
旧五輪教会堂 | 国指定重要文化財 | 1999年 |
この地域におけるキリスト教の歴史(概略)
1562年、五島藩主・宇久純定は、横瀬浦に滞在するイエズス会司祭コスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres 1510-1570)に医師の派遣を懇請しました。それによりディエゴと呼ばれる日本人キリシタンの医師が派遣され、純定の病は快癒しました。純定は五島への宣教師派遣を望み、数年後の1566年、イエズス会宣教師ルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida:1525?-1583)と日本人伝道士ロレンソ了斎(1526-1592)が五島に派遣され、宣教活動を開始しました。
五島列島には1606年までの間に宣教師らが幾度も訪れ、信徒は2,000人を超えるほどになりましたが、1614年の禁教令以後にはキリシタン迫害が五島にも及びます。
禁教下には密かに信仰を続けた者もありましたが、外海・平戸地方のように組織的なものではなかったため、次第に衰退したとみられています。
1797年より、五島の荒地開拓のため大村藩領の外海地方から農民の移住がはじまり、このときに久賀島にも移住が広がったといいます。
1868年9月に久賀島を皮切りに、五島の各地で起こった大規模な迫害は「五島崩れ」などと呼ばれています。久賀島では、6坪の牢に200人余の信徒が8ヶ月ものあいだ閉じ込められ、42人の殉教者が出ました。その後、牢のあったその場所には「牢屋の窄殉教記念聖堂」が建てられています。
旧五輪教会堂の沿革
久賀島では1881年創設の浜脇教会を筆頭に、永里(えいり)、細石流(ざざれ)、赤仁田のそれぞれの地区に教会が建てられました。1931年に浜脇教会を新築する際に、旧聖堂を五輪地区に移築し、五輪教会となりました。
移築から半世紀を経た1985年、年月と潮風による傷みが激しいことから、五輪教会の建替えが決定した際、一度は取り壊しが決定したものの、保存することとなり福江市(現五島市)に寄贈、大規模な修復工事がおこなわれました。
三廊式の会堂部は身廊部・側廊部ともリブ・ヴォールト天井です。側廊部のリブの起点が身廊部より低くされており、それによって身廊部の天井が高く見えるようになっています。
木造の小規模な教会ですが、内部の木肌や漆喰壁に囲まれた空間は落ち着きを感じさせます。
1999年に国の重要文化財に指定されました。
周辺環境と立地
五島市に属する二次離島である久賀島は、南の福江島と北の奈留島に挟まれて位置しています。
旧五輪教会堂の建つ場所は久賀島の東部、奈留瀬戸に面しており、入江の海岸に近く、南側には森林がせまるごく狭い敷地に建っており、陸路では駐車場から500mほど山道と海沿いの道を徒歩で移動します。
概要
事前連絡 | 必要 |
住所 | 長崎県五島市蕨町993-11 |
ミサ・行事 | なし |
見学受付時間 | 【火曜~日曜】 8:30~12:00/13:00~16:30 (教会守常駐) ※月曜日と火曜日(隔週)は、自由見学(施錠はしていません) |
駐車場について | 旧五輪教会堂来訪者駐車場 |
関連データファイル | ごみの投げ捨て等防止重点地区の図面 【PDFファイル(約30KB)】 |